Nice to meet you! 「予兆」
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豪快なクシャミの声がグラウンドに響き渡った。雲水はさすがに驚いた様子で、ベンチでスポーツドリンクを飲んでいたはずの双子の弟に声を掛ける。 「阿含?大丈夫か」 「……あ゛ー。なんか寒気する」 「朝からちょっと変だったもんな……風邪かな」 ひょい、と肩に手をやり、顔を近付けて、額を合わせる。兄にとってこれは単なるスキンシップの延長だ。弟にとっても、この兄の罪のないスキンシップは――下手をすると泣きたくなるほど嬉しい。 ずいぶんと長いこと、ひとつの体を分け合って産まれたこの相手とは、こんなやさしいふれあいはとんと持っていなかったのだから。 「……動けば治るかなと思ったんだけどよ……?」 額を合わせたまま阿含は目を伏せ、ふう、と息を吐き出す。息が熱いのがわかる。脆くなっている。 「ちょっと熱あるなあ」 「……ん……」 兄は――優しい。自分が無様に引きずり下ろされても、こうしてそばにいてくれる。以前よりもずっと、自分を見てくれる。 やばい。泣く。 「――」 ごめんオニイチャン俺今日駄目。 唇だけで囁く。 「……悪りィ。早退。薬飲んで寝るわ」 そろ、と体を離し、俯いたまま吐き出す。 「ああ……わかった。俺も練習引けたらすぐに戻るから、おとなしく寝てろよ」 「あ゛ー。そうする……」 立ち上がる姿さえいつになく精彩を欠く。熱が感覚を覆ってしまって、鈍っている。 阿含はのろりと視線を振り向けた。 こんな山奥にそぐわない、スーツ姿の男。物好きな見物人にしては何かおかしい。時期的にどこかの大学か企業から来た人事系の人間だろうか。目が合って、見知らぬ男は曖昧な笑みを浮かべた。 なんでもいい。今日はもう何もかもどうでもいい。 視線を外す。阿含はぞわりと肩をそびやかした。 心なしかふらついている弟の後ろ姿が角を曲がって消えるまで見送って、雲水は立ち上がった。気分を切り替えるように、軽く体をほぐす。 ごくさりげなく、一休が寄ってくる。 「雲水さん。何か今」 「ああ。……阿含を見てたな」 「何でしょうねあのおっさん?結構前からいるッスよ」 見物人と言うにはあまりに何かが余分で何かが足りない。スカウトとも何か違う。 何だろう、あの視線。好奇。値踏み。観察?変に冷静で思い入れのない、それでいて興味津々の視線。 不快だ。阿含でなくても、あんな不躾な視線を向けられて喜べる性癖は持っていない。そんな、初対面の人間からモノを見るような目で見られる筋合いはなかろう。 きり、と眉が上がった。 ――不快というより、不愉快極まる。 雲水の機嫌を損ねたことに気付いた訳でも無かろうが、スーツの男が踵を返す。 その身のこなしが妙に端正で、雲水を更に苛つかせた。 「帰るぞ」 視線はやらず、横で煙草を吸っていた工藤敬一に一声かけて、一倉は身を翻した。サングラスをかけた長身は慌てて煙草を携帯灰皿につっこむ。 「もうかよ!あンだよ課長、こんな山ン中まで来てトンボ返りか?」 「見る物は見た。どうも今日の彼は本調子じゃないらしい。日を改めよう」 「あ、そう……。課長アンタもうちっと気配抑えろよ。ただでさえピンポイントの圧力キチーんだから」 「なかなか気付いてくれなくて、つい」 「“つい”で善良な高校生巻き込むんじゃねえよ。周りが気付いちゃったぞ、12と33。睨んでたぜ」 「ああ。さすがだな」 「さすがじゃねえよ巻き込んじゃったんだよ。小石投げたつもりが着弾したらバンカーバスターじゃ笑えねえ、周りに迷惑だ。……確かに本人かなり鈍ってんな、あんだけぶつけられても判んねえか。相当具合悪いな。悪化させっちまうんじゃねえか、可哀想に」 「視線」とか「気配」を消し去り、また読み取るという感覚は、彼ら現場の警察官にとっては必須の能力だ。経験を積む中で五感は研ぎ澄まされ、やがては五感を越える瞬間に辿り着く。デカの勘という奴だ。あてずっぽうとは明らかに一線を画す、神聖な領域だ。 感じ取る能力もそうだが、人間は案外強い力を持っている。その目は実体のない「視線」を放ち、また他者の「気迫」を感じ取るのだから。 必要に応じて彼らは威圧を掛ける。潜んだ獲物に、狩り手の存在をわざわざ教えてやるために。逃げ場はないのだと教えてやるために。 そして、この制服組の上司が意識して放つ威圧は現場の古参のような練度でレーザーのように標的を射る。ピンポイントの精度では工藤をすら越えるかもしれない。本気で何か出てるんじゃねえかというくらい、「気配」とか「視線」という範疇を余裕で飛び越える、実体のある豪速球のようなそれは、受ける者に理屈抜きの恐怖を与える。それこそ気の弱い者ならこれだけで体調を崩してしまうだろう。 「ったく。キャリア様の癖にこんな現場の高等テク使うなよな……ヤだヤだ」 「便利そうだからいいなあと思ってな。カッコいいだろ目から怪光線」 「俺ァロケットパンチのが好みだなあ」 「ハハッ」 愉快そうに短く笑う。同世代なのだ。話題は似通う。 「全くよお、突然来たと思えば“金剛阿含”の情報よこせとか言いやがって。だいたい俺ァ少年課じゃねえし、それにあの野郎渋谷がシマなんだから新宿北署なんか来てねえで温和しく最初から渋谷署行けっつう話よ」 「今の渋谷署には知り合いがいなくてな。それに渋谷が本来のシマだというのもお前さんのネタだ。いろいろ手配をありがとう、運転手まで買って出てくれて助かった」 傲岸不遜の課長様からぽんと礼を言われ、工藤は一瞬言葉を失う。いちいち規格外だ、この上司は。 「……渋谷のガキなら木島の旦那の方が知ってんじゃねえのか?あの人顔広いし面倒見も良いから、金剛阿含の知り合いに繋ぐくれえできるんじゃねえかなあ」 「……木島は有名人なんだな」 「そりゃそうだ。あの旦那は偉いんだぜ?出世しようだの本店行こうだの、テメエの事なんざ何一つ考えてねえ男が、やむにやまれず警視にまでなっちまって本店で最前線走ってんだ。普通ならねえわな、俺らノンキャリが警視なんて。課長アンタ横の繋がりナメちゃいけねえよ」 「勉強になる」 「で?今度は何処行く気なんだよ。送ってってやらあ」 「それじゃ、とりあえず本店戻って貰おうかな」 存外に常識的な台詞が返ってきて、工藤は唇をとがらせる。 「何だよ。せっかく遠くまで来たのに、終いか?」 「いや。……そろそろ戻ってきてるだろう」 「阿含?」 部屋の電気を付ける。布団の下からもそもそと顔を出し、赤い顔をして弟が雲水を見る。 「寝てたか。ポカリ買ってきた、飲め」 どかん、と1リットル入りのスポーツドリンクを枕元に置いてやる。 「……あ゛ー。さんきゅ」 「食事は?」 「イラネ」 「何か食べないと薬飲めないだろう。……お粥作ってやるからちょっとでも食べろよ」 熱を帯びて潤んだ目が見上げる。やけに不安げで、心配になる。 「どうせ熱も測ってないだろう。体温計借りてくるから、測れ」 語尾がぶっきらぼうになる。こんな時くらいもう少し優しくしてやりたいのだが、慣れていない。 それでも阿含はぽつんと呟いた。 「ごめんな」 「……何だよ。らしくないな」 「ごめん。雲水」 「どうしたんだよ」 「なんかすげーヤな感じすんだ……」 熱っぽい息を吐き出し、阿含はもう一度ごめんと繰り返した。阿含の横に腰を落とし、雲水はそっと励ましてやった。 「……大丈夫だ。早く治せ、すぐみんな良くなる」 お兄ちゃんと唇だけで呼ぶ。優しい兄のひんやりと温かい手が額に触れて、不快な熱を溶かす。 「ヤな予感、すんの……」 布団の外に這い出させた手で呼ぶ。手を繋いでくれる。 疲労に飲み込まれそうになって、目を閉じる。 浅い眠りの中で、夢を見た。アメフトに集中するようになってからさっぱり興味のわかなくなった下界の夢だ。気まぐれに暴れ、気まぐれに痛めつけ、気まぐれに奪ってきた。面白いと思いもしなかったけれど、退屈しのぎにはなった。 捕まるようなへまは一度だってしなかった。それに潰した相手にもプライドがあるから、警察になど駆け込まない。 だけれど、もしも誰かが。 阿含に叩き潰された腹いせに、墜ちた最強を打とうと考えたなら。 自分の所業が表沙汰になるようなことがあれば、阿含一人の問題ではなくなる。自分が出場停止になるのは仕方ないと思うが、馬鹿馬鹿しいとは思うが、連帯責任でチームの出場権が剥奪されるかもしれない。雲水とチームの日々の積み重ねが、雲水の夢が、儚く潰えて消える。 兄は阿含を責めないだろう。しかし、そうなったら兄はどんなに悲しむだろうか。今までずっと上手くやってきたけれど、これからもそれが続くだろうか。 何を今更とも思う。熱で弱っているだけだ。そう思おうとして、肩を震わせる。 後悔、しているのだろうか。それなりに愉快ではあったけれど、別段楽しいモノでもなかった、放埒で空虚な生活。今のほうがずっと「濃い」。ずっとずっと満ちている。でもそれは奪われるかもしれない。他でもない自分の過去によって。 ――射抜く視線を感じる。知っているぞと声なき囁きが聞こえる。ひたひたと迫る足音までも。 「うんすい……」 「……うん。そばにいるから、休め。それで早く治せ、な?」 弟が泣くんじゃないかと思われて、兄は反射的に言葉を返した。阿含が伏し目がちに小さく頷く。 ――なんか知んねえけど怖いんだ。何かが見てる。 「薬飲んであったかくして、寝てろよ。明日にはきっと良くなるよ」 「ん……」 その言葉はひどく嬉しくて、弟はすこし笑った。 |